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「いじめられる側に問題はない、という原則」からの考察
橋爪大三郎先生による「寛容のレシピ」の解説は明晰だ。
いまこうして先生の「多文化主義」を学ばせていただいていることを幸せに思う。

そして、いつも私をサポートしてくれている同僚職員のケンに心から感謝申し上げる。

ケンはオーストラリアの教育を受けたすばらしい人物である。
あわせて日本の精神が彼の心身には宿っている。わたしはそう信じている。

一昨日、ケンに聞いたことが一つ。
「日本の学校では『道徳』という授業があるが、こっちではあるかい?」

ケンは答えた。
「あるよ。そうだねー。日本語になおすと『ガマン』っていう授業かな。」

「なんだよ、その『ガマン』っていうのは、何の訳だい?」

「ほらこれ。'tolerant'」

「なるほど。『寛容』と訳する言葉かな。でも'tolerant'は『ガマン』なのだね。」

「うん。そう。『ニンタイ』っていってもいいかな。」

「この辞書には『寛容』っていう訳もあるけど、どう思う?」

「ふふっ。そうねえ。」

この会話からお気づきのかたもあるかと思うが
日本と豪州の視点は明らかに違っている。

ひとことで言えば「客観的」と「主観的」、
「傍観者的」と「当事者的」な視点ではなかろうか。

わたしはケンのいっている『ガマン』の意味が
「寛容のレシピ」を読みながらわかってきた。

ありがとう。ケン。またひとつ考えがひろがって来たよ。


日本社会が「多文化社会」に脱皮するためには、
いまの反差別教育のあり方を、
根本的に見直す必要があると思う。


これが課題。


最近のいじめの特徴は、クラスのなかで、誰がいじめの対象になってもおかしくないことである。
ちょっとした服装や言葉づかいや行動や家庭環境の違い。
目立つ態度や目立たない態度。
勉強ができたり、できなかったりすること。

どんな理由もいじめの犠牲者に仕立てるのに十分である。
しかも、中立は許されない。

いじめに加わらないと、こんどは自分がいじめられてしまうかもしれない。
おそらくこれは、戦後社会が飽和して、日本全体が平準化してきたことと関係があるだろうが、
誰がいついじめられても不思議ではない状況がうまれている。

そこでもしも、反いじめ教育をしようと思えば、「いじめてはいけません」ということと同じくらい、「いじめられたらどうするか」を教えなければならないはずである。

(また、「誰かが誰かをいじめていたら、自分はどうするか」も教えなければならないはずである。)

誰が誰をいじめても不思議はないのが世の中だから、これがリアリズムというものだ。

そして、いじめられることには理由がない、いじめる側に一切の責任がある、という原則
をゆずらないことが大切だ。

(こんなにみんなにいじめられているのは、いじめそれ自体にもまして、
いじめられた人間を傷つける。)

いじめる/いじめられる、が対称でなければならないことは、
いじめのケースでわかりやすいだろう。

同じことが、差別にも言えなければならない。
差別する/差別される、は対称である。

誰がいつ、差別してもおかしくないのと同様に、誰がいつ、差別されてもおかしくない。

「多文化社会」とは、そうした社会なのだ。

グラスビー氏が描いているオーストラリア社会が、様々なコミュニティー(民族集団)から
成り立つ社会であることは、本書を読めばよくわかる。

そこでは、だれもがマイノリティーの一員である。
だから、いつ差別されてもおかしくない。

そこでは、差別しないように自制することより、
差別されないために戦う(差別されてもへこたれない)ことのほうが、
ずうっとずうっと大事なのである。

「差別してはいけません」と教えたのでは、
自分が差別される側に回るかもしれないという危機感が育たない。

「多文化社会」は、誰もがマイノリティーであって、しかも人権が守られ、
のびのびと自由に生きられる社会だ。

日本社会が「多文化社会」に脱皮するためには、今の反差別教育のあり方を、
根本から見直す必要がある。


日本の反差別教育現場ではとても「優等生的」な視点から論が展開される。それが現状。
形式的には教壇に立つ「正しい先生」とそれを受け取る「生徒」の空間が用意される。

はじまると

いじめられる対象が仮定され、被差別者が仮定される。
「世の中には、差別をされている人がいる」ということが提示される。

いじめを行うのは、差別をするのは、彼ら以外の多くの人であると仮定される。
このときほとんどの受講者は自動的にいじめる側、差別する側におかれる。

しかし優等生的な正しい授業は
受講生をしてすぐにいじめる側、差別する側から離れるのを促す。
決していじめてはいけない。差別してはいけない。と

そうして、いじめや差別を「してはいけない」という結論が導かれ、
生徒は「正しい先生」から「優等生的」な教育を教授されたことでおわる。

このプログラムを何回も何回も受講してるとどうなるだろう。

おそらく
受講者は正しい見識のある多数派の「優等生」に平準化されるだろう。
差別したりはしないだろう。いじめもしないだろう。

これが日本の反差別教育、反いじめ教育の構造であろう。

でも、もしも

その優等生が差別されたら、いじめられたら、
その彼は自分自身で解決するであろうか。

その彼はその術を教わっていない。思考法も授業では教わっていない。
差別してはいけない。いじめてはいけない。と教育はなされるが

決して「差別されたらこう対処せよ」とか「耐えろ」とか教わっていない。
考え方もわからないから「いじめられた」ことから抜け出られない。
「差別された」ことで思考は停止してしまう。

でも彼には決して問題はない。
誤解のないように再度言うが、彼には問題はない。

結局のところ問題は、受講生が、
いじめられる側に、差別される側におかれることがない構造上の欠陥にある。

「被差別者に目を向けさせられた」受講者はこう感想するだろう。
「彼らはなんと哀れなんだろう。私は彼らではない。とにかく私は彼らを差別をしない。」と。

またあるひとはこういうかもしれない。

「どこに差別があるのでしょうか」「どこにいじめがあるのでしょうか」と。
存在すら認めようとしないひともいるかもしれない。

しかし、この思考にも無理がある。

オーストラリアは逆だ。
いじめられる側から、差別を受ける側からすべてを考えていく訓練。

先生も生徒も差別される脅威にどう向かうか。いじめの脅威からいかに自分を守るか。
そういう危機感からの考察がおこなわれている。

危機管理をオーストラリアの多文化主義から学ぶ。
教育プログラムの根本的な違い。

ますます、魅力のあるオーストラリアである。

平準化された日本人は
得体の知れないなにかから
「我慢」とか「忍耐」とかの言葉を
忘れさせられてしまっているのかも知れない。

少なくとも、おそらく、日本の戦後の反差別教育、反いじめ教育の構造上の欠陥は
パソコンに巧妙にしかけられたウイルスか、故意でなければバグのように
いままで誰ひとりとして気づくともなく動き続けてきたことのように思えてならない。
by yskkyhh3 | 2009-08-29 05:11
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