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プロシア人ルードウィヒ・ライカートのこと
オーストラリア概説には触れていたつもりでいたが、
まだまだ知らないことが多いことに気付く。

今日は探検家ライカートとアボリジニの文明について


1860年のバークとウィリスの「悲劇の探検隊」よりも15年早い頃のことである。
クィーンズランド州ダーリング・ダウンズを9人で出発。

アーネムランドのポート・エッシングトンまでの4800kmを踏破した探検家。
プロシア人ルードウィッヒ・ライカートの探検成功は当座は歓迎された。

しかし大英帝国臣民を誇る当時の植民地人から少なからず反感を買っていたと言われている。
彼はその3年後に大陸を東から西に横断する旅に出たまま行方を絶った。

その運命については
砂漠で餓死または渇死した、アボリジニに殺された、病死だ、いや発狂死したと
様々な説が出ている。

この度は、「ライカートはイギリス人に暗殺された」と新説を唱える学者が現れた。
北部準州ダーウィンのチャールズ・ダーウィン大学(CDU)のダン・バシエラ助講師だ。

師は、「彼が、アボリジニの襲撃で倒れたという可能性を捨てきることはできないが、
もっとまがまがしい出来事があったのではないか。
当時、白人がアボリジニに毒入り小麦粉を与え、大量殺害を実行していた。
ライカートと6人の探検隊も同じようにイギリス政府の手先によって毒を盛られたのではないか」としている。

1845年当時、ライカートの探検能力を疑う声が挙がっていた。
バシエラ助講師は、
「彼の探検日誌は後にイギリス人の手でかなり改竄された形跡があり、ライカートの探検能力を低く見せようとしたと思われる。
イギリス政府が『テラ・ヌリウス(無住の土地)』として領有宣言したのに、
若いドイツ人科学者が、
オーストラリア奥地には石器時代に似た文明があるとヨーロッパで発表すれば
イギリス政府は赤っ恥をさらすことになる。
3度目の探検で探検隊全体が行方を絶ったが、
2度目の探検では全員が病気になり引き返している。
この時、すでにライカート殺害を試みたのではないか」と述べている。

バシエラ助講師は、
「ライカートは、アボリジニの文明を高く評価し、
彼らからオーストラリアの奥地で生き抜く方法を学び取ろうとした。
それが彼の成功の秘訣だった」としている。

(訳注:1844年/45年の探検で、ライカートはアボリジニのガイドを雇っており、
奥地で生き延びるコツを彼らから学んだとされている。
ライカートよりも大所帯で出発しながら
帰途遭難したバークとウィリスの探検隊には見られない態度だった)。

AAPより



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by yskkyhh3 | 2009-06-11 06:30
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